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幕末の浮世絵

182_tsukiokakobara2_mokuhankuchie2_meijiedehon2_kokukayakuwari2_haikaikyouka1_ukiyoe1_shinhanga1_meiji-021_meiji-011_bakumatsu00年代に入ると浮世絵は円熟期に入ります。絵師の増加、絵のテーマの多様さ、彫りや摺りの技術の高度化、一般町人達への浸透など、浮世絵の世界はこれまでにない活況を呈することになりました。作風としては誇張や歪曲といったディフォルメが見られるようになり、多くの色を使用した華美な作品が好まれました。
1830年代にはベロ藍と呼ばれるヨーロッパから輸入された化学染料が流通するようになり、藍色を効果的に使った作品が世に送り出されます。葛飾北斎の「富嶽三十六景」、歌川広重の「東海道五十三次之内」などが有名ですが、江戸末期の浮世絵界をリードしてきた歌川国貞や歌川国芳などの絵師たちも役者絵や武者絵でその効果を活かした作品を描いています。藍色を主とした錦絵は藍摺と呼ばれ、幕末を代表するものとなりました。


  • 菊川英山「青楼美人合岡本屋内 稲岡 茂枝」
    文政(1818~30)年間頃

  • 歌川国芳「二十四孝童子鑑 董永」
    天保末~弘化初期(1840年代)

  • 歌川国貞 「東海道五十三次之内 白須賀 猫塚」
    嘉永5(1852)年

  • 歌川広重 「名所江戸百景 堀切の花菖蒲」
    安政4(1857)年

  • 歌川国貞Open or Close

    江戸時代後期から明治時代という長きにわたり、浮世絵界のトップランナーを走り続けてきたのは、歌川豊春(1735〜1814)を祖とする歌川派でした。豊春に師事した豊国(1769〜1825)の時代に役者絵や美人画などで確固たる礎が築かれ、その門下からは優れた絵師が多数輩出されています。中でも歌川国貞(1786〜1864)は豊国が確立した歌川派を実質的に受け継ぎ、幕末に至るまで活躍しました。
    国貞が得意としたのは美人画と役者絵です。特に文化文政期(1804〜1829)に描かれた美人画は、江戸の粋を格調高く表現した作品として高い評価を得ています。


    • 「新版錦絵 当世美人合秀佳きどり」
      文化12(1815)年頃

    • 「浄瑠璃づくし お千代半兵衛 宵庚申」
      文化10(1813)~天保13(1842)年頃

    • 「見立三十六歌撰之内 清玄」嘉永5(1852)年

    • 「今様押絵鏡 おじょう吉三 和尚吉三 於坊吉三」 安政6(1859)年

    また、草双紙挿絵などでも力量を発揮しました。版元仙鶴堂、柳亭種彦の作、歌川国貞の絵による「偐紫田舎源氏」は一世を風靡し、その後の源氏絵ブームの火つけ役となりました。国貞の精緻で華麗な画風は婦女子を中心に大きな好評を得て、以後人気が衰えることはありませんでした。


    • 「今源氏錦絵合 関屋」嘉永5(1852)~安政1(1854)年

    • 「源氏後集余情 廿二のまき 玉かづら」安政6(1859)年

  • 歌川国芳Open or Close

    国貞同様、歌川豊国の元で絵を学んだ歌川国芳(1797〜1861)は、国貞とは異なる武者絵、風景画、花鳥画、風刺画などの分野で活躍しました。文政10年(1827)からシリーズで発表された「通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)」は大好評で、浮世絵の世界に武者絵というジャンルを確立するきっかけを作りました。国芳の大きな特徴は斬新なアイデアと大胆な構図にあります。「宮本武蔵と巨鯨」や「相馬の古内裏」など迫力があって躍動感あふれる画風は、江戸の人々に大きな驚きをもって迎えられました。また、国芳は無類の猫好きで有名で猫をテーマにした浮世絵も多数描いています。


    • 「通俗水滸伝豪傑百八人一個 黒旋風李逵一名李鉄牛」
      文政10(1827)年

    • 「百人一首之内 能因法師」
      天保11(1840)~13(1842)年頃

    • 「小倉擬百人一首 陽成院 鬼若丸」
      弘化3(1846)年頃

    • 「通俗水滸伝豪傑百八人之内 入雲龍公孫勝」
      嘉永前期(1848~1852)頃
    • 「唐土二十四孝 呉猛 大舜」
      嘉永年間(1848~54)

    • 「木曽街道六十九次之内 蕨 犬山道節」
      嘉永5(1852)年

    • 「浮世又平名画奇特」
      嘉永6(1853)年

  • 歌川広重Open or Close

    歌川広重(1797〜1858)はかつて安藤広重と紹介されていました。広重は武士の出で安藤という姓は定火消し同心を役目とする家の苗字、名前は徳兵衛といいます。広重という名は師の豊広から命名された画号ですから、これまでは本名と画号を一緒にしていたわけです。現在では広く歌川広重と呼ばれるようになりました。
    広重が師と仰いだ歌川豊広(1776〜1828)は豊国の弟弟子に当たります。豊国と比べると地味な雰囲気の画風ですが、清楚ですらりとした柳腰の美人画は洗練された浮世絵としての評価があります。豊広は役者絵をあまり手掛けませんでしたが、そのこともあってか門人からは広重のような風景画や風俗画を描く絵師が輩出しました。広重もその中の一人です。
    広重の出世作となったのは天保2年(1831)35歳の時に発表された「東都名所」という風景版画でした。ベロ藍によって表現された空や川、海そして紅色の雲などは後に生み出される数々の風景画の名作を彷彿させます。そして天保4年(1833)の「保永堂版東海道五十三次之内」で人気を博し、以後木曾、近江、大坂、江戸など数多くの風景画を描きました。考えられた構図、限られた色調などみる側を飽きさせない連作の展開は広重独自の世界です。また、広重は素朴で愛らしい花鳥画も描きました。広重の穏やかな性格、自然に対する優しさが滲み出ている名品が多数あります。

    • 「東海道五拾三次之内(狂歌入東海道) 原 嶋田 藤川 石薬師」
      天保11(1840)年

    • 「即興かげぼし尽し 入ふね 茶わんとちゃ台」
      天保10(1839)~13(1842)年頃

    • 「小倉擬百人一首 光孝天皇 巴御前」
       弘化3(1846)年頃

    • 「六十余州名所図会出雲大社ほとほとの図」
      嘉永6(1853)年

    • 「名所江戸百景 馬喰町初音の馬場」
      安政4(1857)年

    • 「名所江戸百景 真乳山三谷堀夜景」
      安政4(1857)年

    • 「参宮上京道中一覧双六」
      安政4(1857)年

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