日本の伝統木版画は、版元を中心に絵師・彫師・摺師との共同制作を特徴とし、各職人の知と技と精神が一枚の和紙に躍動することで作品として完成します。一般に、日本の伝統木版画は江戸時代の浮世絵と大正・昭和初期の「新版画」が良く知られるところであり、明治時代は衰退期と一蹴されます。確かに、西洋の新技術に取って代わられ浮世絵の市場規模は減少し、また画風も時代にそぐわないものになっていきました。特に、明治20年代以降は新作も大きく減少し、まさに浮世絵は終焉へと向かっていきました。
しかし、この伝統木版画のそれぞれの職人たちは、生き残りをかけ時代の荒波に対応し新たな動きをみせていました。絵師は、形成されつつある近代日本画壇と融合し、彫師や摺師はこれまでの制作方法とは異なる肉筆画や古画の精巧な再現を可能とする技術を発展させるなど試行錯誤が繰り広げられていました。それらは、新聞雑誌の挿絵・近代文学の木版口絵・「国華」や「美術世界」などの美術専門誌・展覧会など明治ならではの新たな舞台で展開されていました。そして、減少した版元が江戸浮世絵の復刻などに力を入れる中、「大黒屋松木平吉」と「滑稽堂秋山武右衛門」など一部の版元は、水野年方や尾形月耕などとこれらの新たな動きによる秀逸な近代浮世絵を生み出していきました。
そして、さらにこの流れは明治末から大正時代にいくつかの作品群に結実されました。それは、国華や木版口絵で発展した技術により生み出され、色のぼかし具合や筆致のかすれなどこれまでの浮世絵とは異なる肉筆の日本画の妙味を存分に表現した作品であり、日本美術として海外でも高い評価を得ました。後に続く「新版画」が、ばれんの跡を残しあえて版画特有のぼかし表現を行うなど、摺りや彫りの技が作品の中で主張し肉筆画とは異なる木版画芸術を生み出したのに対し、これらの作品は、あくまで絵師の肉筆の表現を最大限に重視し、超絶技巧の彫りと摺りの技は表面に主張せず、絵師の表現の中に静かに統合されます。
これらの作品は、その制作期間・作品数が少ないことや当初から海外向けを重視して制作されていたこと、そして「新版画」の大きな流れの陰に隠れ、日本では一般に知られない作品になってしまいました。ここでは、なかでも月岡耕漁の「能楽百番」と小原古邨の花鳥画を紹介します。これらの作品は、各職人がそれぞれ新たな舞台で生き残りをかけ発展させた技術の結晶が、「新版画」とは異なる一つの到達点に達していたことを証明するに余りある芸術性を有しており、江戸浮世絵と「新版画」との間にある明治後期の伝統木版画を単に衰退・終焉と一蹴してはならないことを私たちに訴えかけてきます。
- 月岡耕漁 明治2(1869)~昭和2(1927)年 Open or Close
東京生まれ、12才頃から伯父に陶器の絵付けを学び、さらに東京府画学伝習所で結城正明に日本画を学びました。18才の時、母の再婚相手月岡芳年の門に入り、その後日本画家でもあり浮世絵師でもある尾形月耕に、また日本画家の松本楓湖にも学んでおり、明治前半の日本絵画界の状況を反映した環境の中でその腕を磨いていきました。明治20年代から、日本美術協会展・日本青年絵画協会共進会などに出品し賞を受ける他、浮世絵・「風俗画報」の挿絵などで活躍するようになります。一方この頃、能楽界は武家のお抱えが無くなった明治維新後の危機を乗り越え、富裕層を中心に更なる客層を増やすべく積極的に活動している時期でした。
耕漁は、明治30年前後から能画に傾倒し始め、展覧会にも多くの能画を出品しました。その他、木版画では明治30年から5年をかけて全261図(目次含む)からなる「能楽図絵」、さらに大正11~14年には2枚組・3枚組を含む豪華作品全102図122枚(目次含む)などが代表作として知られています。
能の装束や曲の研究、舞台のスケッチを重視しながらも、能画について「能楽絵は能の決まりを守らなければならないが、細部にあまりこだわるべきではなく、写生一点張りではいけない、自分が能画を描くのも能のもつ典雅な趣味に強く惹かれるからだ」(『書画骨董雑誌』大正1年10月号)と述べています。日本美術協会展では審査員を勤める他、晩年まで各展覧会に出品を続け、自他ともに認める能画専門絵師として活躍。木版画だけでも1000図を超えると考えられています。-
「能楽図絵 猩々」 明治31年
●能楽百番 大正11(1922)~14(1925)年
月岡耕漁が明治30年から制作した「能楽図絵」と同じ版元である「大黒屋松木平吉」より出された、目次2図の他全100図120枚のシリーズで、月に3枚ずつ制作されました。上質な奉書紙に耕漁の肉筆の筆致・色彩を再現するような技術に加え、金銀摺りなどを含む数十回の摺りを重ねた豪華な作品。背景を省き演者を中心として能の持つ幽玄の美を見事に表現した能画家月岡耕漁の木版画最高傑作にして、新版画全盛の時代に明治半ば以降培った技術で世に送り出した「大黒屋松木平吉」最後の大型シリーズ。
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「羽衣」 大正11年 -
「石橋 双図」 大正11年 -
「翁式 三双図」 大正12年 -
「嵐山」 大正12年 -
「橋弁慶」 大正12年 -
「金札 南都薪能」大正12年 -
「敦盛」 大正13年 -
「蝉丸」 大正13年 -
「望月」 大正13年 -
「道成寺」 大正14年 -
「鞍馬天狗」 大正14年
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小原古邨(祥邨・豊邨) 明治10(1877)~昭和20(1945)
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金沢市生まれ。菊池容斎の高弟・中島亨斎に師事し活躍した鈴木華邨に10代で入門。華邨は、日本画の他木版口絵でも活躍し、花鳥画を得意とした画家です。古邨は、明治32年から岡倉天心が中心となる日本絵画協会の展覧会や共進会に、花鳥画を中心に出品し褒状を受け日本画家としての道を進みました。そして、既に渡辺省亭や鈴木華邨の花鳥画が海外で人気を得ていた頃、古邨の花鳥画はアーネスト・フェノロサの目に止まり、輸出用の木版画の制作へと導かれました。
明治40年前後、輸出用に制作された古邨の花鳥画は、300種類を超えると考えられ海外で大変な人気を獲得、この間古邨はこれらの制作に集中しました。大正になると「古邨」から「祥邨」へ画号をかえ肉筆画を描き、昭和に入る頃から版元渡辺庄三郎の許で新版画の版下を制作、新版画を代表するの画家の一人となりましたが、その期間は短く晩年は「豊邨」としてわずかに活動しました。 花鳥画の持つ日本の美を存分に表現した画家としてだけでなく、「大黒屋松木平吉」などが明治の伝統木版画の変容を受けた末にたどり着いた肉筆画の妙味を活かした作品と、「渡辺庄三郎」が進めた新たな伝統木版画の復活という新版画としての作品の双方で優品を制作した数少ない画家としても注目すべき人物といえます。
●小原古邨の花鳥画
明治40年前後、アーネスト・フェノロサの導きにより海外向けに版元「滑稽堂秋山武右衛門」と「大黒屋松木平吉」から出された作品群。明治末期に集中的に制作され、300図を超えると考えられています。小原古邨の描いた肉筆原画から写真技術を使って下絵を作り版木を彫ったとされており、明治後期に培った新技術を取り入れ、肉筆のような筆致と色彩の微妙な濃淡を見事に表現しています。
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版元「滑稽堂 秋山武右衛門」より 明治末期 -
版元「大黒屋 五代目松木平吉」より 明治末期
●小原祥邨の新版画
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版元「渡辺庄三郎」より 昭和初期
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